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2016/08/17

そろそろ

住み替えを検討する時期を迎えている。
実家の処分に取り組むのは来年以降となるので、それと並行して次の手を摸索しよう。

いまの住まいは、自分が管理組合の理事長やった年に「社会人としていろいろなことを学ばせてもらった」という感謝と、さらに「せめて実績として喜んでもらいたい(何よりも自分のためにと)」という思いから、ペットマンションとしての規約改正に1年弱でこぎつけて総会で決をとった! という実績を感じさせてくれる場所である。

だが、経年と昨今の住民事情というか。
もともと「何はなくとも経費削減」というような、自分の会社でやってくださればよいような、いろんな欲求不満解消のはけ口としてマンション管理の役員をつとめてくださるひとがチラホラと存在した。

バブル末期の頃に建てられたマンションゆえ、という住人の入れ替わりも激しい。

管理会社への値引き交渉や相見積もりの依頼は、やらぬよりはやったほうがよい。それはわかっている。けれども、細かいところ(修繕や植栽)で知りあいの業者へのあっせんとか、いろんな不正はおそらくゆるゆるになりがち。それだってしかたがない。でも、今年はいよいよ、管理委託の内容に大きくメスを入れ、人件費(清掃職員を解雇して、そのぶんの仕事をすべて管理員にやらせる。もちろんいままで毎日やってもらっていた掃除やゴミ出しが週に1回レベルに減らされる)の削減をターゲットにして、管理契約をあらたに締結することになった、とのこと。

ひえ-。
ただでさえ、ダストルームのゴミはだらしないことになりがちだとういうのに!

※実はついさっき、ゴミを出してきてあまりのダラしない捨て方にギョッとして、せめてもということで、ビン缶ペットボトルの分別だけは自前のゴム手袋をはめて、つらつらと分け直してきたところ。いやまあ、それだけやって、ほんの5分とか10分しかかからなかったけど、ホントはペットボトルやビンの置き場に、中身を入れたままモノを放りこんだせいで汚れた床を磨いて終わりにしたかった……。次に機会があればそれもやろう。

マンションって、住んでる人たちの意識次第でどうにでも雰囲気がかわる。
うちのマンションは、今回の予算削減に一役買ってくれたのと同じメンバーが委員会メンバーをつとめた年に実施された大規模修繕で、経費をねぎりまくって見つけてきた業者さんがイマイチで、壁にせよ通路にせよ、クリーニングしたわりにはすっきりしないで、なんだこれは!とひそかに思っていた、という前科がありましてな。

建てられてから初期の頃に住んでいた人たちで、人生やキャリアのステップアップをした人たちはどんどんと引っ越していき、半分くらいはもう入れ代わったんじゃないかな。とくに、私が組合理事長を一回目にやらされたとき、それ以前に役員をやった人たちはほぼ壊滅状態。有名な漫画家さんとか、大手出版社勤務のひともいたようだけれど、その3年後にはみんないなくなっていた。

よっぽど管理組合の仕事に懲りたんじゃなかろうか。
そう思わされるくらいの払底ぶり。

いやまあ、私も余力があるうちに次に行こう。
総会の議決書を読みながら、そう心に決めました。
よっしゃ!

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2016/08/15

レストランでの出来事(昔話)

私がフランスで学生生活を送っていた頃のこと。
正確に言うと、留学時代のわりあいと最後のほうだったかと思います。

出来事その1。
そろそろ帰国を考えるようになった時期のこと、グルメな友人に誘われて、星付きレストランのランチを予約して出かけてきました。日本でも名の知られたロブションの系統の店で、あの伝説的なじゃがいものピュレというか、マッシュしただけのじゃがいもがどうしてこんなに美味いの! と思った記憶はいまでも鮮明。

たまたま、すぐとなりの席に日本人のグループがいらしていた。
観光旅行だったのかはさだかではありません。官僚とか大企業勤務かはたまたよいお家柄の大学教授か、というオーラを放った1、2名がもう少し旅慣れた、たどたどしいながらもなめらかなフランス語と英語のちゃんぽんで「ガイド」というか、ツアコンの役目を買って出たお仲間に連れられて、奥さま連れで有名レストランにやってきた、という風情。

私らが言葉に不自由していないのを見て取ると、上手に不慣れな様子をアピールしつつ、お店の給仕さんとのやりとりの助っ人をこちらがせざるを得ないようにともっていきました。や、スマートなやり口だったので、こちらも苦笑しながらも「たまたま同国のひとと一緒になったご縁なので」と、給仕さんと楽しくおしゃべりしていた、と記憶。

最後のところで、その方たちが「せっかくなのだから記念に」と、お店のメニューを人数分、持ち帰りたいとご所望しました。で、なぜそれを私が通訳しなくてはいけないのか、と、ちょこっと思いながらも、このとおりの「イヤとは言えない性格」なもので、給仕さんにやんわりとお願いしてみたわけです。

すると、すでにかなり仲良くオシャベリしてくれるようになった給仕さん、さすがのプロだと、いま思うのですが、こう答えてきました。

「あなたはとても素敵なお客様で、こちらもお話しすることができて今日は楽しかった。だから、あなたお一人に、こっそりとメニューをひとつ、お譲りすることはこちらとしても喜んでぜひ、なのだが、となりのテーブルのかたたちは、正直なところ、私にとって対応していて楽しいことが何もなかった。だから、あなたがどうしてもと言うなら、人数分のメニューをご用意します。でも、いつでもこういうお願いごとに応じると、彼らに思われたくはありません」

なるほど。
では一部だけ、あのかたたちに差しあげてくださいな。

そうお願いしたような気がする。

そして二つめの記憶。
たまたま日本で、某演奏家のファンである、という共通点がきっかけで知りあったひとが、新婚旅行でパリにやってきて、トゥールダルジャン(!)でのお昼にご招待してくれた。

ありがたや!
と思いまして、図々しくも出かけてきたわけです。
もちろん、その前後のパリ観光のガイドも喜んで勤めさせてもらったっけな。おお、いま思えば、私は「そういうのってイヤ」と言いつつ、それなりにパリのご縁でのツアコンみたいなこと、学生時代からけっこうやっていたではないか。

そして事件は起こった。
いや、表向き何かがあったというわけではないのよ。

こちらの新婚夫妻、気っ風はいいのだけれど、変なところで公共意識に乏しかったというか。前述の「メニューを欲しがったグループ客」よりも、タチの悪いことをやってくれました。

記念にと、トゥールダルジャンの(カトラリーとかでなくてまだマシだったというべき?)灰皿を、こっそりハンドバッグに忍ばせて持ち帰ってしまったのです。悪びれることなく「それくらいのお値段の食事を食べた客だもの、こっちは」と、そうも言っていたっけな。

バブルの時代の話です。
いまのお隣の国の富裕層のひとたちが、もしかするとよく似たことを各地で繰り返しているのかもしれません。

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なんでこんなことを書くかというと、いまになってまた、通訳仕事をたくさん引き受けるようになると、レベルの差こそあれ、こういうふうに「もらえるものはなんでももらう」という、そういうおかたを見かける機会も増えるんだよね。

で、そういうことをヌケヌケとやらかす人たちは、品は悪くとも、仕事がデキたり、お金を持っている(スポンサーになる)ことも、皆無ではない。つまり、私の立ち位置だったら、どういうふうにこういう人たちをスルーするのがよいのだろうか、と。

悩んでいる、というと大げさね。
世の中にはオモシロイ人がいくらでもおるなあ、って。

ちゃんちゃん。

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2016/08/14

あなたは誰ですか

すでに何回か、自戒およびグチめいたニュアンスをこめて、この「あなたはナニモノですか」というつぶやきをこのブログでも文字にしたことがあったかと思う。

日本語のニュアンスでいくと「エキセントリック」という言葉がしっくりくる。
上昇志向の強い男性でも見かけるけれど、とくに女性のほうがね。自分と同性であると、なおさら気に障るというか、なんなんだろう、このひとは……という場面を目にしてしまうことが多い。

誰かにすり寄っていくことで、何かを手に入れようという「野心」がムキダシの人ね。たとえば下手の横好き!と呼びたくなるような演奏(演奏でなくても)を、友人をだまくらかしての集客で無理やり聞かせる。シロウト丸出しの同人誌をつくって、実費と称して一冊いくらで売りつけるとか、何かの集会のついでに自分のダンスとか自作詩や童話の朗読とかを披露する、というのも範疇にいれたい。

イケバナの名手らが「これでお金を稼ぐということは許されない」と、トップクラスになればなるほど口にするのと、まさに逆。なんの根拠もなく、自信たっぷりに一流アーティストに馴れ馴れしく「同業者」よろしく話しかける。恥ずかしいシロウトの典型。

これが、セミプロを名乗るレベルになると、もっと見苦しい「有名人とみると我先に話しかけてくる」というケースも増えてくる。舞台を終えたばかりのアーティストに話しかけたことがあるというだけで、知りあいだとか親しいとか言いはじめる。

ああ、私も一歩まちがえるとそういう人種と同じになりそうだから、それでこんなにセンシティブに反応するってことなのかもね。今回、フランスでお名刺をいただいたかたで、私とパリの学校で同級生だった人ととても親しいというピアニストの知りあいがいる、と言われて往生した。どこでどう話が「盛られた」のかはわからぬが、あの学校は卒業どころか、入学さえもしていないのに「一等賞で卒業」とか「同学年の誰それとは親友」というような経歴詐称がとっても多いのだ。とはいえ、初対面の、それもご当人でもなく、なんの悪気もない(!)かたに向かって、ウソだの詐欺だのあげつらっても誰にも何の得もない。

本物のプロしか相手にしない、なんて言っていたら、しまいには音楽の世界で仕事なんてできなくなる。かもしれないしさ。

で、同じことが、音楽のみならず、他のどの世界でもよくあるんだよね。
気にしないで、そして嫌われてナンボ、という気持ちで自分の「いま」をコツコツと積み重ねていく。それあるのみ。

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ラ・ロック・ダンテロン2016で聴いた演奏会

まずは軽く備忘のために。
日本を7月29日深夜に発ち、8月9日に戻ってきました。滞在中に聴くことができた演奏会は以下のとおり。

ダヴィッド・フレイ(バッハ、シューマン、ブラームス)
7月30日(土)21時30分開演

フランソワ・デュモン(オール・ショパンのプログラム)
7月31日(日)18時開演

デニス・マツーエフ(シューマン、ラフマニノフ)
7月31日(日)21時30分開演

ネルソン・ゲルナー(バッハ、シューマン、ショパン)
8月1日(月)21時開演

ガスパール・ドゥアエネ(ベートーヴェン、シューベルト、ショパン、スクリアビン)
8月2日(火)18時開演

フランソワ=フレデリック・ギイ(オール・ベートーヴェンのプログラム)
8月2日(火)21時開演

井上道義指揮/オーケストラ・アンサンブル金沢(モーツァルト、ベートーヴェン)
ソリストはクロエ・ブリオー&ヤン・リシエツキ
8月3日(水)21時開演

同上の井上道義OEK(武満、モーツァルト)
ソリストはOEKコンミスでもあるアビゲイル・ヤングとデジェ・ラーンキ
8月4日(木)21時開演

ユーリ・マルティノフ(シューマン、ベートーヴェン/リスト)
8月5日(金)18時開演@ルールマラン教会堂

ローレンス・フォスター指揮/マルセイユ・フィルハーモニー管弦楽団(チャイコフスキー、コープランド、ガーシュウィン)
ソリストはダヴィッド・カドゥーシュ
8月5日(金)21時開演

ラ・ニュイ・ド・ピアノ(ベートーヴェン)
ソリストはベンジャミン・グロヴナー、アブドゥル・ラーマン・エルバシャ
バリー・ダグラス(ピアノ&指揮)、シンフォニア・ヴァルソヴィア
8月6日(土)20時&22時開演

トマ・オスピタル/オルガンコンサート
8月7日(日)17時@キュキュロンのボーリュー聖母教会

ベフゾド・アブドゥライモフ(ヴィヴァルディ/バッハ/コルトー、バッハ/ブゾーニ、シューベルト、ベートーヴェン、プロコフィエフ)
8月7日(日)21時

15回の演奏会を楽しませていただきました。
感謝。

……ホントに感謝だってば。
自分がこんなふうに淡々とピアノの演奏会で座っていられる人間だということを、再発見させてもらえて、ありがたく思っております。記憶に残るであろう、ベストの演奏をどれか一つ、と問われて、間髪を入れずにトマ・オスピタルのオルガンがサイコーでした!と答えたことは否定しませんがね。だって、ほんとにみごとだった。楽しかったよ。

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2016/08/13

良かったと思うこと

この2年くらいかな。
ちょうど、母が亡くなって父の体調がみるみる悪化しはじめた頃、いま思えば私も心身ともにけっこうヤバい状態になっていたのだ。もともと「いつでもチャンスの前髪は引っ掴む」気構えは万全だった私だけれど、あの頃はさらに、気づかぬウチに「溺れる者はワラでもつかむ」の緊急アンテナが働いていたに違いない。

で、精油(アロマ)のことを勉強するにつれ、少しずつスイッチが入ってきたスピリチュアルとか、上とのつながりとか、ハイヤーセルフとか。さらに関連での自己啓発とか、そっちのほうの本も読みあさる時期がしばらく続いた。

母が生きていた頃は「これがあと2年も続いたら私は死ぬかもしれない」と感じていたような、良くないことがあるとそれは自分のせいであり、人にきらわれたら最後、何もかも自分が悪いから自分は不幸になって、親を不幸にして自分も痛みと苦しみと孤独にさいなまれて死ぬのだ、という悪運信仰みたいなものに悩まされたのだけれどね。

何が起こってもそれは因果応報。その考え方は同じであっても、エゴや概念の枠が外れるとここまで見え方が変わってくるのか、と驚くほどに世界観が明るく変わりました。ありがたいなあ。視野が明るく変化しはじめた最初の頃は、親(特に生きていた頃の母)を責める気持ちが生まれてきそうで、それを苦しく思うこともあったけれど、責める気持ちって、あとづけで生まれてくるものはしょせん「ただの思い込み」でしかない。そう気づいて、基本的には「どっちでもいいやん」と思えるようになってきた。

うーん。まだ上手く言えませんがね。
で、何を書きたかったんだっけ。

ああ、そうだ。
生き方とか人生とかそんな観念的な話以前に、たとえば仕事で人と出会って、チームでの仕事をしていく。そういうのも、以前の自分であれば「対個人」のうんと細かいところでも、相手と自分の方向性の違いとか、行きちがいがどうとか、センスの違いとか、気遣いのポイントの違和感とか、そういうところにいちいち傷ついたり、ストレスを感じたり、場合によっては「相手とのあいだの扉を閉ざしてしまう」ことも多かったのだ。

それがね、わりとそういう「その人との相性」みたいなところが気にならなくなってきた……ような気がする。気がすると書いたのは、まだちょっと現場での自分がそこまで柳に風と受け流せるかどうか、言い切りたくないからってことなんだけどね(笑)。

何年かまえ、オーボエの神さまと呼ばれているモーリス・ブルグ(ま、この人に対しても若い頃の私はあれこれ違和感をおぼえては自分を追い詰めたことが何度かあるんだけど)と話をしていて、呼吸つまり管楽器の演奏でもっとも大切なテクニックというか、表現そのものについて、彼が二十代のある時期、寝ても覚めても、扉を開けても〆ても、右足を一歩出して左足を一歩出しても、ともかく一瞬たりとも休むことなく「呼吸のことばかり」に向きあっていた、と。

何かを会得したとすると、そういう時間を2年間(と言っていた。確か)ほど自分に課したおかげである。

比べてはいけないかもしれない(いや、ちょっとそう書いてみただけw)けど、私の人生の四季サイクルも、何やら「コツコツと積み重ねてきたこと」が一巡してきた感がある。自分の人生は自分でつくっていく、という「因果応報」の思想を毎日のように実践していけることが楽しくてしょうがない。

さて、これからはどんな方向へ走っていこうかな。


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