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2017/11/30

ピアノの音

ヘタに自信のあるひとだと「自分がブレる」ことへの不安をおぼえたりするようです。

私は、自意識過剰な傾向がありますし、自分がブレたり、何か変な隙(スコトーマ?)とか逆鱗をこさえて、その急所を一撃されることへの恐怖……ないわけでもありませんがね。でも、実際のところ、ブレかどうかは、自分がそう決めてるだけだもんなあ。

たとえば、このブログにいままでポロッと書いちまったことでいうと、ブレンデルの音が苦手だった。引退まぎわのブレンデルは、音楽のつくりが上手くなってイヤミが薄くなったせいか、そこまで「こんな音で主張するヤツがこの世のどこかで息していることさえもムカツク」ほどの嫌悪感はわかなくなった。グリモーとかは、同門で昔のことを知っていなければ、ここまで「どうでもいい」とか「へらへら」「空っぽ」とまでは糾弾しなかったかも。その程度。

ツィメルマンは、基本的に初期の頃は「ああ、きっとこいつ、イヤなヤツだ」と感じた上で、まあ、上手いってこういうことかもしれんし……と受容。シマノフスキの仮面とかさ。曲によっては、こういう「ちょっと鼻につくエゴ」がないと成立しないような、とっちらかった美しさをまとめる力にもなっていたと思う。イヤミな感じがね。それが、ショパンの協奏曲を自分が弾き振りして録音していたあたりになると、ともかくもう、そこまで「自分は賢い」と誇示しないとダメなん?って。ちょっとどころか、鼻につくところしか聞こえなくなった。もしかすると、最近はまた少しマシになったのかもだけど。

……こうしてみると、ひと(演奏家)が臆面もなくスタイルを変えたり、ブレたりすることに対して、わたしはけっこう寛容なのかもしれない(笑)。自動的に、自分についても、いろんなことが一貫してる。そう思って、まあ、ホッとする……いや、どうでもいいと思っているフシもあるなあ。

で、11月30日オンエアのNHKFMのクラシックカフェ(再放送)。
こんなことをFBのかたすみでつぶやいた。

~でもそういえば、今朝はラジオを聴いてて「たぶんヴィラロボス(いやまさかアルベニスにしては音楽言語がちょっとへん)だけど、まるでジョリヴェみたいに弾いておるピアノ」「音だけでどこのひとかわからぬ、中国人でないことは確かだけど、思想や感受性の反映がなんにもない気持ち悪さはいったいどこのピアニストだ」「学生時代にブレンデルの音が大嫌いだった自分の拒否感が再燃。嫌うほどのキャラもなし」と思ったピアノ、アムラン(マルクアンドレのほうね)だったよ。

はい、アムランの音は、これがジャズピアノと思いこんでさえもピンとこない。
録音だと音が無機質に聞こえるタイプなのかもしれないけどね。
ふむふむ。いやはや。

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2017/11/20

コンサートに行かなくなったわけ

わけなんかない。と思う。

最初はね、理屈抜きで「ああこれ行きたい」と思える演奏会が少なくなったなあって。
コンサートって、マラソンハイとか、読書ハイと同じで、きっかけ1つで楽しくなって「また次に行きたい」とスイッチが入って、リズムよく次の出会いを楽しめたら、あとはどんどんとイモヅル。

逆に、いったん火が消えてしまうと敷居が高くなっちゃうんだよね。
知りあいが誘ってくれても「いやその、知りあいだからこそ、演奏は遠慮申しあげた方が」という真理(心理)が働くってのもある。

もちろん、点ではなく線でのおつきあい。演奏家とはそういうものだ、ということも重々承知のすけ。私だって本来はそっちの畑にいたんだし……と思うとかえって意欲が薄れるってのもあるかもね。

特にピアノ。
ま、そういう時期もあらーな。

世の中にはクラシックピアノ以外にも、いくらでも刺激的で奥深い冒険の音楽はたくさんある。未知の世界というだけではなく、フレッシュなインパクトが欲しいと思うなら、いくらでも与えてもらえる。この「いくらでも」というのが、必ずしも妄想領域にいかずとも、楽しい出会いはいくらでもある。自分のありようを進化させていくきっかけは、自分でそうと決めさえすれば、いつでもどこでも、どこからでも抽出可能。

ってことで、新国での椿姫を観てきたいなあって思ったけど、案の定、腰があがらず。読響のメシアンのオペラもね、私は83年の初演をパリで観ていて、これは見に行く「べき」と思いはしたものの、どうもスイッチが入らない。

せめて、松竹系(かな)でやってるソフィア・コッポラの椿姫な映画でも観てこよう。

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