2016/10/26

自分の苦手を考察する

電話が苦手になったのは、いつの頃からだろう。
携帯電話がどんどん普及してきたのにあわせて、屋外で使い慣れない機械にオタオタしながら、相手の声が聞こえないというストレス&自分がスピーカーにきちんと声を送っていない、という不安にびくつき、さらに携帯電話での用件というのがたいていは「いついつのご予定はいかがでしょう」という、よく知っている相手ならまだしも、いきなり誰それから番号をもらってかけてます、という会ったこともない相手からの、どういう仕事なのかもわからない問い合わせに答えることへのストレスに疲労した、というのが大きい。たぶん。

で、よく考えてみると、いつから日本では「いきなり知らない相手からのコール」に応えることが、社会人としてのプロトコルというか、それができないと人間失格……みたいな概念がここまで大手を振るうようになったのだろう。

むー。そんな概念、ごく一部での妄想でしかない、というのが真実であったりする。
知らない相手であったり、知ってる相手であっても、デートの誘いと同じく、こちらのタイミングがあわないなら電話に出ないことも当然の選択肢として許されるはず、なんだよなあ。

誘ってくるほうは、行動をおこしているわけで、そういう意味では受け身のこっち(この場合)よりも、パワーと道理という味方がある。それだけのこと。

電話をかける、ということは相手の時間を奪うということ。
この大原則を私は腹の底にかかえている。だから私はまず、自分へのコールがいやだという以上に、きちんとした用件(これはどうしてもその相手と話したい、という気持ちの動機であってもかまわない)でもないのに誰かに電話するのが、あるときからとっても苦手になった。

これからそこを、直したいと思えば、きっとこの「思い込み」も修正される。
いまはムリに変えようとしなくてもいい、かな。うん。

同時に、手紙についてもね。
私の中には、びっくりするくらい筆まめな自分と、筆無精で何年もご無沙汰してしまう(けど、その相手のことはめちゃくちゃ大切に思っている)自分と、複数の人間がいるんだね。

ふと思ったのが、筆無精であろうがなかろうが、私が私として「きちんといまを生きる」ことを積み重ねていさえすれば、あとのことはどうにかなる、ってこと。

言い訳を長々連ねたような気もするけど。
頑張っている私、とか、誠実な私、とか、あたまに形容詞をつけないといけない自分はどうせ本物じゃないってこと。うん、そんなこんなで本日のツレヅレを終わります。

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2015/12/08

本気?

昔は……って、コンピュータとかワープロとか、クラウドとかネットワークとかSNSがなかった頃。手紙や電話、あるいはその時代のメディアを介してしか、ひととの交信ができなかった頃、自分スタイルというのかな。そういう「自分の立ち位置」を決めるのは、いまと違った意識のもちかたとか、難易度を求められたんだと思う。

モーツァルトの時代。旅をすることは、そういう人生を選びとった特別なひとたちの、特権だった。健康にめぐまれていたからこそ可能だった娯楽だった。そういう時代のひとたちの生活リズムは、いまとはまったく違っただろう。手紙を書くということや、日記をつけるということも、いまとはまた違った意味合いや、思想をもたらしたはずだ。

ふりかえってみて、いま。
ツイッターやネット(ヴァーチャル)文化が根づいて、言葉は垂れ流されるのがあたりまえとなった。いや、紙での通信しかなかった時代でも、垂れ流しは垂れ流し。そういう芸風のひとも、もちろんたくさんいただろう。

でも、軽くなった分、決意表明!みたいなことも、ごくごく簡単に誰にでもできてしまう。
そういう「表明」を「横から見ている私たち」という存在があればこそ、なんてイージーなんだろう……って、まあ、それもある意味ではただの私感。私のエゴがそうつぶやいているだけのこと。

書いていて、ふと思いついたよ。
誰かを(自分も)コントロールしたいという欲求。これは、そのひとのことを好きだから気になる。そういう感情や「愛」によって出てくるエネルギーなんだけどさ。端的には友人関係や、恋人たち、親子関係。誰かが誰かを「好きだから」ということを口実に「あなたのため」と、おためごかしの思いや愛情で支配・コントロールしようとする。この支配欲も、メディアが発達するごとに雪だるま式に強大な「しばり」になってきたんだな。

自分はこう思う、とか、私はこういうものが好き、とか。
どんなたわいのないことでも、強い想念エネルギーをもっているひとの場合、用心が必要……って気がする。ま、誰でもみんな、それぞれに好きなことをして幸福に生きればいいだけのことだから、私が気にすれば気にするほど、そこでもまた私にとっての負の連鎖が始まる。そこもまた気をつけつつ。

意見表明や自己アピール。
気をつけよう、と思ったのでメモです。

いや、ひとがそれをするのを見ると鼻につくから、じゃあ私はやらないように気をつけよう、という考え方も、それはそれでちょっと偏っているから、あくまでゆるゆるっとね。今年も残りあと3週間。そのへんをつめていくのが、年内最後の私のToDoかな。うん。

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2015/05/29

相性の問題

心と体の……うーん、よくいえばデトックス中。
悪いモノが出ようとしているというよりは、モノゴコロついてからこっち、フタをして「ないこと」にしていたいろんなものがグツグツぼこぼこと浮きあがってきている。自己啓発っぽく言うなら「重荷を好んで背負うタチ」「不要なものは手放してしまえ」なのだけれど、本来の自分は、誰かにそう言われたからといって素直に言うことを聞くこと自体にものすごく抵抗があるというか、仮に今、そういうふうに言葉を投げかけられてもおそらく「薄っぺらいこと」にしか聞こえないであろう自分が自分でも手に負えない。ちょっと支離滅裂ぎみ。

とことん納得するまでは「誰かの言いなり」にはなりたくなかったんだ! なのに、どこかでふと「あきらめ(=手放す)ほうが楽ちんだし、そのほうが正しい」という、刷りこまれた身勝手なジャッジが頭をもたげて、ホントはあきらめたくないのにあきらめたという挫折感だけがしこりになっていたみたい。時間を超越するほどの悲しみや怒りがドーンと渦を巻いて、わけがわからぬほど、捨て鉢で切羽詰まった思いがグルグルしております。で、こういう「自分で自分の声をとことんきいてあげる」という作業をしばらくないがしろにしてきたなあ、とも。いや、いまみたいに、コントロールの利かないエネルギーにとらわれて、あんまり長いこと立ち止まっても、良いこと何もなさそうだって、そこんとこもよくわかっているんだけどね。まえにも人間関係(つか自分のコントロール)でグチャグチャしたとき、人を変えるよりはまず自分だろう! と。でも、そういえばあのときも、方向転換を「決める」というよりは、自分の持って生まれた頑丈さに甘えて、ひたすら時間薬が癒してくれるのを待っていたような……。

身も世もなく「調子悪い」という言葉を口にすることも、いままでずっと自分に禁じてきた面もあり。みっともないからってね。それだって、2月に貧血(?)で倒れたとき、一緒にいたかたに向かって「甘えてしまってごめんなさい」という、わけわかんないセリフが口から出てきたことのフラッシュバックと重なるというか。

もうひとつ。気をつけよう。いまの自分課題が「好きとキライ」の決め方。悩んだあげく、どっちかに決めなくてもよいではないか、というぬるい結論に落ちつきつつある。ただ、そこのところで「美味しいところ」「キモ」「人とのかかわりで得られるご褒美」の部分を誰かに踏まれたり、ツマミ食いというか、アブラゲもっていかれるみたいな感じになると、その相手に対してグツグツと怒りがふきこぼれそうになる。これ、長女気質の私が末っ子気質のアプローチに慣れていないってことなんだろうけど。感情をこじらせるくらいなら、最初から「寄らば切る」と殺気をそのまま偽らずに漂わせる方が、自分に対しても相手に対しても、ホントの意味で親切ってことかもしれないね。

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2015/05/27

すべての道は鍋の蓋の話に通じる。

自分のペースで。

日本で云う代替医療は、保険が利かない治療のことだと思えばいいのかな。そして、昔ながらの「おばあちゃんの薬箱」とか「手当て」というような、シンプルが命というような手法もあるけれど、最近だと代替医療とか民間療法というだけでみんな身構えてしまいがちだからってことかもしれない。いわゆる「法律的な枠内での医療行為」とは認められないものほど、理論武装とかメソッドとか資格とか、情報があふれかえっている。同時に、科学とかエビデンスと言ったところで、統計やリサーチと同じで「どういう調べ方をするか」「線引きをどうするか」次第でいくらでも恣意的に歪めて伝えることだってできちゃうじゃん、というような私みたいなへそ曲がりもいれば、「じゃあ」とばかりに、新興宗教さながらのあの手この手で勧誘してくるひともいる。

お金をもうけるという基準に目が眩んで、ネットワークビジネス商法も横行する。

いろんな観点があると思う。けど、私の目からすると、どれもエゴ丸出し。私自身、穏やかそうに自分で自分を飼い馴らすのに苦労する日常で、生まれたときは人並みに「やっほー、この世にきたかったんだもん!」というエゴで登場したはずの人間だからね。エゴを隠さない人は苦手だし、コインの表と裏の関係として、エゴいこーるアーティスト気質みたいなカテゴライズをしたうえで「世の中みんな平等」というか、誰もがベルトコンベアに乗るみたいな仕事をしなくちゃ許さないというような価値観にとらわれている人も、同じだけのベクトルで大嫌いだ。

ええと。何が書きたかったんだっけ。
そうそう、だから「ゆるゆる生きましょう」とか「マイペースでいいんだよ」という言葉での条件づけも、実は「ガツガツいこう」「アグレッシブこそ勝利の秘訣」という価値観と、実は表裏のところにあるんじゃないかな。なんて、ここ数日でふとおもうことがあってね。

あ、もちろん、冒頭に引用したヴァニラさんのことは大好きなんです。だから、引用はホントにたまたま。目についたから。ただ、情報量の多さとかで人を説得するのもねえ。ああ、そこか。「説得」だ。そこが私のいまのキーワードなのかもしれない。表と裏をセットにするという話の流れからすると、私は説得されたくもあり、されたくもなし。そういう気分のようです。

つれづれ語り。でした。
あ、タイトルはね、私が小学校のときにお世話になったピアノの先生の言葉からひねりました。
鍋の蓋をどう持とうが、きちんと持つことにできるだけ早く気づいた人が、ほんのちょっとだけ得するかもしれない。けど、それだって大した違いじゃないよ、という感じのお言葉だったかな。

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2015/03/31

ライフログのすすめ

いままでも何度かここで書いたかもしれない。つまり、どうして人は(私は)日記をつけるのか。いちばん印象敵に記憶に残っているのが、アニー・エルノー来日のときに堀先生とのあいだで交わしたやりとり。日記をつけるのは「誰に読ませるためか」に始まり、人によって違うとか、どれだけ毎日つづけられるかとか、日記をつける人とつけない人手は何が違うのかとか。そんなことをツレヅレに、相手の話を聞くと言うよりは、テーブル(いろんなところであのメンバーでごはんを食べたような気がするけど、あれは確か資生堂でのセミナー後のお食事会であった)をかこむ人たちがそれぞれに、意見のテーブルに乗ってきた話を味わい、誰に聞かせるでもなく、自分が思いついた事例についてボソボソとしゃべった1時間ほど、だったなあ。

習慣にしてしまうほうがいいのか。
これはいまだに私はよくわからない。そもそも、1年以上続けたことはほとんどないしね。このブログでさえ、書いているうちにわけわかんないことになったり、ふと気づくと、へんな人たちと自分との境目がまったくなくなっていて、この記録はいったいなんの役に立っているものやら……とショックを受けて、ごらんのとおり、何年も空白期間が空いてしまうことがあったほど。

評論の仕事をするひとなら、記録を取ることは「自分の財産」「最初の一歩」となるはずなのだけれど、それだって、文化史を振り返ってみるなら「記録をつけることにエネルギーを注いだ人」がどれだけのことを成し遂げたか、評価はわかれる……いや、私が勝手にわけているだけか(笑)。

そもそも、一見したところは理路整然と日記が書ける人。これがいちばん楽しそうに見える。けど、それだってあくまで「いまの私の目から見て」ってことだものね。長くてウダウダ書かれた文章は、それが日記であろうとなかろうと、誰も読んでくれない。もしくは、自分自身でさえも「読むのか?」と疑問を感じる。おっと、ここで堀先生も言っていた「誰に読ませるための日記なのか」という設問に帰ってくるわけだ。自分かもしれないが、私の場合、自分が長々書いた暗中模索な文章を何年もしてから読みたくなるとは思えない。

いま書いている文章は、まず、ほんの数日後の自分にとって役に立つ。このところの自分の実感。いろんなことを「考える自分」は、意外と進歩も退化もなく、ただそこにいるだけ……であって、それでも「自分なりの心地よさ」で整理された自分情報は、書くことでも熟成させることでも読むことでも、いずれのファーズにおいても「心地よさ」を磨いてくれ、すっきりと自分の表現をまとめることができたよ!という行為は、さらに自分を楽しませ、新しいエネルギーをもたらしてくれる。

ということで、カジュアルな文章を書くということ。
生きているかぎりは続けてみようかな。

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2015/03/12

アウトプットに備えてのインプット

1月に「わたしの原点」ということで、クラシック音楽の世界を足抜けしてはまた戻り……という、自分にとってのきっかけについてのメモを残したわけですが。

10年を経たところで、ちょうど「ぐるっと回ってまた同じ場所に戻ってきた」という感じがあったんですよね。幾つかの違いがあるのだけれど、そのうちの一つ。10年前の(端的にはお酒が入ったときの)口癖が「このさきの人生、私はもう、好きなことしかしたくない」「音楽業界のねじくれたパワハラ満載の空間にイヤケが差したら、こんなアルバイト、即座にやめてやる」でした。

いまはね。いろんな人たちと知りあって、しかもどちらかというと表舞台で演奏する人たちを支える立場のかたたちが、本当にキラキラと輝いて、音楽のことだけではなく音楽家の生き方に寄り添って生きていらっしゃるのを目にしました。さらに、演奏家をサポートして、みごとな仕事ぶりを発揮しているところをたくさん見る機会を与えられた。あるいは、自分でピアノを弾いていたころは「何もわかっていないのに偉そうにしている人たち」のことを、極端な言い方をするなら「演奏家の足元にも及ばない仕事をしている人たち」だと思っていて。ま、本質的にはそのあたりの感覚はいまでもそれほど変わっていないとは言え(てへっ)、そういう人たちだって、音楽や演奏にこだわりぬいて、アマチュア(?)なりの命がけの誠意を尽くして仕事をしている。そういう人たちのプライドを逆撫でするかのように「イヤなことが続いたらすぐにでも辞めてやる」とぶちまけるのは、さすがにちょっと申し訳ないかな、と。

もう一つ。この10年で、まさか自分がこんなふうになるとは……と驚くような、いろんな責任ある仕事をまかせられる機会に恵まれた。同時に、目立つ仕事をすると、きっちりと風当たりは強くなる、ということも実感した。うーん、まあね、そのあたり、良くも悪くも振り返ってうだうだ考えるよりは、いまはもう先に行きたい、という心境でもある。

新年度。実際にどういうリズムになるかは「出たとこ勝負」でいくつもり。思えば震災後、無性に「ナマ音を聞きたい」という矢も楯もない思いに駆られ、それ以前はライブ演奏会を聞きにいくことはかなり控えめだった私が、気になるコンサートは次から次へと出かけていくようになり、在京オケの定期会員になったり、通訳やライター仕事での役得も(それまでは出先で名刺を出すことも自分に禁じていた)ありがたく受け、演奏会のご招待をいただくとできるだけ足を運ぶようになった。ご縁のあったコンクールもこまめに聞かせてもらい、自分の「価値観」「美的センス」「目利き」「みーはー感覚」に、あらためて自信を持てるようにもなった。それを「メシノタネ」にするべきだというアドバイスもいただいた。そこんとこは保留ちう。

ただ、見ていて思うのよ。音楽業界もまた、4年でいろんなことが一巡した。もしかすると……うーん、上手く言えないけど、これからの私はインプットよりもアウトプットってことなのかもしれない。より正確には「アウトプットに向けて、自分に向きあう孤独な時間」が必要になってくる。そんな気もしている。

脈絡なく書き連ねたけれど。
まずは「手遊びにカジュアルな文章を書くこと」から再開しようかな、と。
そんな感じ。

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2014/09/11

自然体でいきたい

名刺を交換して、そのあともほそぼそとやりとりが続くこともあれば、そのままご縁がつながらないこともある。それとちょっとだけ似たニュアンスで、昔からの仲間もしくは友人であっても、あまり活発なやりとりもなく、化学反応が起きなかったというパターン。つまり「仲間だけど友達じゃない」という関係に終始してしまっている、ってことなのかな。何人かそういう相手がいます。同窓であったり、何度もごはんに呼んでもらったりして、アプローチはあったのにそこから踏みこんだ関係につながらなかったというか。

まあ、たいていは私が頑なというか、なんだか一歩を踏み出せないまま、二十歳の頃から進化しない(あくまでその相手に対しては、ということ)まま来てしまったのだけれどね。

相手に対して心を開けない。いや、それ以前に、遊ぼうとか一緒に何かやろうとか、声をかけてもらっても、なんだか気持ちが乗らないというのが、大きな理由なんだよね。

つまりは相手に対して身がまえてしまっている。この「身がまえる」ってなんだろう。好きとかキライとかで片づけてしまうのは簡単だけど。それだけでもないような気がする。こっちが身がまえるよりも前に、互いの顔色を見あってしまって、もしかするとこの人は私のことキライなのかな……と。こちらだけではなく、あちらも先回りして考えてしまうんだろうね。それって、もしかすると「似たもの同士」の感覚の持ち主だからこそ、反撥して仲よくなれない。きっかけがつかめない。そういうことなのかもしれない。

さらに、生き方や生活のスタイルが違う。成長のスピードがあわない。そして互いの違和感が受容できない。スピ系の言葉でいうなら「波動がちがう」ってことかね。どちらが高いとか低いとか、そういうことでもないと思うけど。

なぜだか、こだわってしまっている。身がまえてしまう。ということが、きっと相手にもまわりにも透けて見えてしまうんだろうね。こんなことにこだわっている自分の心の狭さにウンザリすることもある。私が親しく思っている友人が、軽やかにいろんな仲間と交流して、辛いときに支え合ったり、よい刺激を与えあっているのを見ると、人柄とか佇まいというのかしら。「こだわらない人間性」や「全方向にオープンマインド」であることこそが美しい……とも思うのよね。

が、そういう友達と二人で直接あってオシャベリしてみると、実は「あのひとのこと、自分も実は大嫌い」ということをサラッと告白されちゃったりもして。や、嫌いな相手ともオトモダチづきあいできちゃうのがオトナ。そういう人生の真実もある。よくわかる。私も心身の調子がいいときは、誰に対しても凪いだ心で振る舞えるから、いずれにせよ「私の心の戦略」「気分の問題でしかない」ことも理解できる。

でも、有名になった仲間や、セレブな相手と親友づきあいをしていると名乗り、「尊敬」「感謝」「親友」と、そこに本気はどこまであるのかと疑いたくなるようなツーショット写真を自分のサイトやSNSのプロフィールページに並べている人を見ると、お願い勘弁して!と思っちゃう自分が、どうしても消去しきれない。や、自分の人生をハイクオリティで走っていきたいのであれば、まずは成功者や有名人、もしくは自分が本気でステキだと思うひととオトモダチになるのがいちばんの早道。そのことはよくわかるよ。うーん。むずかしいね。

これは今月の自分への宿題。すっきりさせて、新しい月は余計なことをグズグズ思い悩まずにゴーイングマイウェイ。

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2014/08/16

内海聡さんの本を買うべきか

一冊も買ったことがないことを反省しつつ、治療院のホームページを拝見すると、治療の予約をとるにあたって必ず自著を三冊くらいは読んでから来てください……というようなことを書いてあるので、自著出版といってもふつうに「老舗の出版社の編集者が企画をたてて執筆依頼をして本をつくって、それをその出版社の営業さんが売り歩く」というクラシック(?)なものではなく、あくまでご自分の治療の理念と営業を、ビジネス感覚で(たいへん優れていると感銘)宣伝のために自主的に書いていらっしゃるのかな、と。それが話題になっているからと、あとおいで「ともかく出して売る」「売れるもの」への鼻がきく編集者さんが飛びついて、二番煎じ、三番煎じの本にしている、という印象。それが「ダシガラ」にならないところが、みごとだなあ。引きだしをたくさん持っていらっしゃるということですね。

昨日、FBで内海さんの記事をシェアしたところ、こんなことになっているので……と教えてくれたかたがいました。ありがとうございます。

離党届を出した市議さんのブログ

ひゃー。というのが最初のひと声。
この話題、今朝のラジオのニュースで報じていましたが、ネットで話題になったのを他のメディアが後追いする、という動きに今後はなっていくのだと思います。どういうふうに波及していくのか、そこだけちょっと興味がある。

ということで、ブックマークがわりのピックアップ。でした。

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2014/08/12

ロビン・ウィリアムズが!

米俳優、ロビン・ウィリアムズ自殺か

ネットを見ていると、こういうニュースは早いですね。
大好きなコメディアンだったのでショックです。が、ファンだからこそ……というと我ながら傲慢な言い方かな、と思いつつ、驚かなかった自分にため息というか。

死にたいと思う人ほど、実は生きることへのエネルギーや憧憬が強い。あるいは、才能ある人ほど、自分で自分をしばって、アクセルとブレーキをフルスロットルで限界を超えた負荷をかけて生きねば……と思いがちなんだよね。

生きることにも死ぬことにも、もしかするとたいした理由は必要ない。けど、生きているということだけでも、ある意味では奇跡であり、この宇宙から与えられた得がたい贈り物なのだ、と。できることなら、今日生かしてもらっていることに、日々あたらしく感謝して生きていきたい。けれども、もうダメだとリタイヤを決めてしまう人も、もしかするとほんのちょっとした加減で思い直して、そこから生き生きとした命を最後までまっとうしたかもしれないのよね。どこかでバカになるスイッチを自分のなかにキープして、ありもしない理想で自分をいじめすぎないこと。他にもいろんなことを書いておきたいけど、いくら言葉にしても、だからなに……という面もあり、そしてそういう面をあるときは尊重しないといけない、とも思うしね。

たくさんの素晴らしい仕事を残してくれたひとに感謝を。

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2014/05/18

ブログについてのメモ

しかし、久しぶりにこういう日々雑記のライティング(書き散らし)に復帰してみると、カジュアルなことを書かなくなった&メールでの友人とのおしゃべりも控え気味にしていた日々を経て、自分の頭の中がもつれた糸が巨大なダンゴになっているような、しっちゃかめっちゃかのストレスのかたまりみたいに、未整理の思念をぐるぐるするまま必死に背負って生きていたのね! と、何やら圧倒されております。まあ、そのへんはこうして書いているうちに少しずつスッキリしていくことを願っていますがね。

それとは別に、まだ細かいことまで見ていないけれど、ココログもあちこちだいぶ仕様が変わったような気がします。バージョンアップというか、ホントに使い勝手が良くなっているのかどうかは謎。なれど、そういえば……と思い出したこと。何度かお仕事もご一緒したことがあるフリーの編集者・サカモトさんが主宰していたブログやサイトがありまして、あのサイトは翻訳業界に興味がある人たちはもちろんのこと、もともと雑誌づくりのプロである人たちが作っていたのもあって、ともかく読み応えたっぷりの立派なものであったから、おそらくはアクセスがかなりの数になっていたはずで、ときどき舞台裏でのご苦労などあるんじゃないかと訊いてみたら、ともかく書くだけ書いて、できるだけ良い記事や情報をアップして、あとは気にしてもしようがないからアクセスカウンターの動きも見ないし、アクセス解析なんかもいっさいやってません、そのほうがすっきりきっぱり、ネットライフを楽しめますから……というようなことをおっしゃっていたっけな。つまりニフティが「何をどうバージョンアップ」したところで、思いつくことをどれだけ気持ちよくツレヅレニ書き捨てることが(おっと!)できるか、私にとってそれがまずは大事よね。

実はこのブログを「ほぼ完全放置モード」にしてから少しして、パリ時代の同級生から「同窓生感覚が楽しいよ」と背中を押されてFBを始めました。私としては「ネット上での双方向のやりとり」は十分に飽和状態。とはいえ、ニフティ通信の頃で、すでにいちどはお腹いっぱいでリタイアしたソーシャルネットワーク。飽きたらやめようかな、と思っていたところ、それとは別にFBでよくやりとりする友人たちが情報交換のツールとしてブログも上手に使っていてね。試しに友人たちの登録が多いアメブロに登録してみたら、健康情報(アロマとか食餌療法とかはもちろん、ホメオパシーやフラワーエッセンスなどのホリスティック関連のセミナーのアナウンスとか)の双方向でのやりとりがやけに充実していましてね。お友達がお気に入りにいれてる「読んでるブログ」を順番に読ませてもらうだけでも、時間を忘れて読みふけってしまうほど楽しい。

一方的に読ませてもらうだけでは申し訳なくなって、自分なりのメモとか備忘ノートを兼ねて、私もブログを書いてみようかと思ったわけです。が、いろんなブログによって、向き不向きってあるんだなあ。私みたいに「頭に浮かんだことをそのままズラズラと書き殴る/キーボードを高速でカシャカシャ」という人間には、どうもアメブロは重いのだ。反応がゆっくりすぎて焦れったい。もちろん、スマートフォンなどでブログをアップする人だったら、あれはあれで使い勝手がよいんだろうなあ。が、スマホ導入はまだしばらく私にとって「想定外」だし、タブレットもねえ。いまだに電子書籍も本格導入できてないことを反省しつつ、ともかくココログにいったん回帰してみようかと。

そんなこんなの「お久しぶり」なのでした。
ああ、アメブロもしばらくはこちらと並行して続けていくつもり。ブログの名前は登録時にあわててひねったけど、プロフィールにこのブログと同じ名前をいれてあるので、アロマに興味のあるかたは気が向かれたら検索してさがしてみてください。自己流にて勉強中ですけど、人のためというより自分の身体を実験材料にして遊んでいるという感じでやってます。

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